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田中将大選手と楽天イーグルスの軌跡。スポーツジャーナリスト石田雄太がいま、マー君を振り返る。

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楽天イーグルスのファンにとって、田中将大という存在は特別な重みを持つ。トータル11年の在籍期間で繰り広げた名勝負の数々。楽天イーグルス時代の彼に何度か単独インタビューを行ったスポーツジャーナリスト石田雄太に、その功績を振り返ってもらった。

マー君、神の子、不思議な子――そう言ったのはノムさんこと、楽天イーグルスの元監督、野村克也さんだった。高卒1年目の田中将大が大量失点しながらも勝ち投手になったとき、ノムさんは「天から神が降りてきた、そういう星の下に生まれているんだろう」と笑った。ノムさんのこの言葉に、田中は感謝すべきなのかもしれないと思う。「マー君」のニックネームは田中のイメージを可愛らしく演出してくれた。思い出すのはその4年後、久米島の浜辺で田中が声を張り上げたときのことだ。楽天イーグルスが春のキャンプ中、恒例としていた早朝の声出しである。

「5年目、22歳、田中将大です」

手を後ろに組んだままの田中が腹から絞り出した言葉は、一瞬、周囲がどよめくほどの宣戦布告だった。

「4年連続開幕投手の岩隈(久志)さんから開幕投手の座を奪い、沢村賞を目指してがんばりたいと思います」

田中がここまでハッキリと開幕投手への想いを口にしたのははじめてのことだった。この当時の若いピッチャーには「全員がエース」とか「開幕戦はあくまでも1試合」、「タイトルにはこだわらない」といった、執着を表に出さないことがカッコいいと思っているかのような風潮があった。しかし、田中のこの言葉に昭和の野球好きはシビれた。とりわけ感動していたのが、ノムさんの後を受けてこのシーズンから楽天イーグルスの監督となった昭和の野球人、星野仙一さんである。

「いいねぇ。田中もあれくらい言ってくれんとな。これで岩隈も刺激を受けるだろうし、いいんじゃないの。岩隈か田中か、どっちが開幕に投げるのか、楽しみじゃないか(笑)」

楽しみって、決めるのは監督じゃないですか、と思わず突っ込みたくなるほどご機嫌な闘将だったが、2011年3月11日、東日本を襲った悪夢のような大震災によって状況は一変する。開幕は延期となり、仙台の球場も被災した楽天イーグルスは、地元での試合を行うことができなくなった。そして4月15日、楽天イーグルスは甲子園球場でシーズン最初の主催ゲームを戦った。その先発のマウンドへ星野監督は田中を送り出した。田中はオリックス・バファローズを相手に力投。3-2と1点をリードして迎えた8回表、ワンアウト2塁のピンチで、打席に坂口智隆を迎えていた。ワンストライクからフォークで空振りを奪い、追い込んだ3球目。アウトコースにまっすぐのボール球を投げて誘うも、坂口はバットを出さない。続く4球目、キャッチャーのサインを覗き込む直前、田中が突然、ニヤッと笑った。いったいなぜ、このピンチにマウンドで笑ったのだろうかと、見ていてドキドキした。

ここで田中は渾身のストレートを再びアウトコースへ、今度は低めいっぱいのストライクゾーンに投げ込んだ。フォークも頭にあったはずの坂口は完全に腰が砕け、空振り三振。田中はピンチを切り抜け、完投でその今シーズンの初勝利を挙げた。震災後の苦しい状況の中、田中のピッチングには心震えた。

伝説が打ち立てられたのは2013年のことだ。東日本大震災から2年後、春季キャンプ恒例の声出しで久米島の浜辺に立った田中は、「今年の野球界の主役は俺たち楽天だ!」と叫んだ。そしてシーズンで24勝0敗というあり得ない数字を叩き出して2度目の沢村賞を獲得、楽天イーグルスを日本一に導いたのである。その舞台はジャイアンツとの日本シリーズ第7戦――日本一を目の前にした9回裏のマウンドに田中が上がったとき、降っていた雨が一瞬、止んでいた。球場のスタンドを埋め尽くした人々の「あとひとつ」の大合唱は、無粋な屋根に遮られることもなく遠い夜空にこだましていた。田中が一球、投げるごとに雨粒が大きくなってきた。球場と東北の人々が空でつながっているような気がした。雨の中の観戦はつらいものだが、あの夜は雨もまたドラマの一部に思えた。雨に煙るグラウンド、雨を照らすカクテルライト、雨に濡れるクリムゾンレッドのポンチョ、どれも雨ならではの風景が、あの日本一の瞬間を幻想的に演出していた。

田中にとっての一番の野球マンガは『MAJOR』だった。

「マンガはメチャメチャ読むほうではないんですけど、野球マンガは読んでました。なかでも『MAJOR』が一番でしたね。最初に読んだのは中学生のときかな。(茂野)吾郎にも憧れました」

兵庫県の宝塚ボーイズで捕手から投手に転向した田中は、その才能を高校で開花させる。中学を卒業した田中は、北海道の苫小牧に移り住むことを決めたのだ。高校生で親元を離れ、甲子園を目指して津軽海峡をたったひとりで渡った覚悟を、田中はこう振り返った。

「いや、ひとりじゃなくてふたりだったんで(中学時代のチームメイトがいっしょだった)、北海道へ行くのも全然、平気でしたよ。もとから家を出て、野球をやる気、まんまんでしたから。ホームシックにもかからず、のびのびやってました」

では、苫小牧で過ごした高校時代の思い出と言えば……。

「冬の練習は特殊だったと思います。積もってる雪を練習前にどかすと氷が出てくるんですけど、その氷の上でスパイクをはいて、土の上でやる練習を普通にやってましたからね。ノックも氷の上だからって手加減もなく、監督が土の上と同じようにボーンと打ってくる。もちろんデコボコですからイレギュラーしますよね。そういうところで精神的にはすごく鍛えられました。もう、二度とやりたくないと思いますけど(苦笑)」

田中が1年の夏。ベンチ入りこそ果たせなかったものの、駒大苫小牧は北海道勢として初の全国制覇を成し遂げた。そして、2年の夏は背番号11ながら田中がエース級の働きを見せ、57年ぶり6校目の夏の甲子園連覇に貢献した。3年夏は斎藤佑樹のいた早実と決勝を戦い、再試合の結果、敗れてしまった。しかし、田中がいた3年間、駒大苫小牧は夏の甲子園で14勝1敗1分。3年夏の決勝を迎えるまでは14連勝だったのだ。

「高校の映像を見ると、当時はガッチリしてるなって自分では思ってましたけど、細かったですね。僕らは甲子園へ行くことではなく、日本一になることが目標だったんで、もっともっと高いところをみんなで見ようと考えていました。実際、甲子園に行くのは当たり前だとまわりからも思われてましたけど、そんな簡単なもんじゃないとも思ってました」

高校を卒業後、楽天イーグルスで7年、ニューヨーク・ヤンキースで7年、田中はコンスタントに結果を残してきた。ルーキーイヤーからの7年間は2ケタ勝利が6度、届かなかったプロ2年目は9勝だった。メジャーでの7年間も2ケタ勝利は6度で、届かなかったのはコロナ禍による短縮シーズンだけ(3勝)。そんな田中にエースの定義について訊いてみたことがある。田中はこう言った。

「エースと呼ばれる人には、チームの中心にあって引っ張っていこうという気持ちが必要だし、そこが一番大事だと思います。でもエースという存在は、まわりが作り上げて、まわりが評価して、はじめてできあがるものだと思うんです。どういう立場であれ、何を言われようが、自分はチームの中心選手だという気持ちを持って、これだ、という立ち居振る舞いをチームメイトに見せていかなければならない……うん、そこは変わらずに、どういう立場であれ、やり続けなきゃいけない部分かなと思っています」

2021年に楽天イーグルスへ戻ってきたとき、田中は「ワクワクが抑えられない」と話していた。25歳でヤンキースへ移籍して、32歳で楽天イーグルスに戻った――震災から10年というタイミングで東北へ戻ることになった決断を、田中はこう語っている。

「プロに入るときはドラフトでしたし、メジャーに行くときはポスティングシステムを使っての移籍でしたから、FA になってはじめて自分でチームを選択できる権利を持ちました。そこで僕が選ぶべきは楽天イーグルスしかありませんでした」

メジャーからのオファーがありながらのこのタイミングでの決断には、田中なりの想いが込められていたはずだ。

「震災から10年が経ったからといって、それで終わりってわけじゃない。まわりから区切りみたいに取り上げられたとしても、ずっと変わらずに戦っている方々にとっては10年経ったことは何も関係ないし、何かが変わるわけじゃないとも思います。そういう中で僕がこの決断をして(被災した人の)近くにいられることになって、何かできることが増えるんじゃないかな、と思いました。できる限りのことをしながら、みんなで活気を持って過ごしていきたいな、と思います」

2021年4月24日には、仙台で復帰後の初勝利をマーク、これがNPB通算100勝目で、177試合での達成は史上2番目の早さだった。その年は4勝9敗ながら規定投球回数に達し、2022年も9勝を挙げて1シーズン、ほぼローテーションを守り通した。2023年には11年ぶりとなる開幕投手を務め、このシーズンも7勝ながら先発ローテーションの一角を担い続ける。今年は勝ち星こそ挙げられなかったものの、ずっと戦う準備は続けていた。

2007年からの7年間、田中は岩隈を超えてエースとなった。しかし2021年からの4年間、田中は楽天イーグルスのエースに戻るまでには至らなかった。それでも田中はいまも仙台で、野球の裾野を広げるために初心者向けの「マー君カップ」を開催するなど、未来を見据えた子どもたちとの交流を続けている。

2013年の秋、「あとひとつ」の大合唱とともに、田中が仙台に、東北に与えた喜びは消えることはない。日本一になったあの夜、マウンドに立っていた田中と東北に住む人々は確かに空でつながっていた。「マー君」は苦しかった時代の東北を、そして楽天イーグルスの歴史を、華やかに彩ってくれていたのである。

TEXT:Yuta Ishida
EDIT:Chiharu Abe, Yohsuke Watanabe(IN FOCUS)

  • スポーツライター
    石田雄太

    1964年、愛知県生まれ。大学卒業後にNHKで「サンデースポーツ」などのディレクターを務めた後、1992年にフリーランスとして独立。執筆活動のほか、スポーツ番組の構成・演出にも携わっている。『イチロー、聖地へ』『桑田真澄 ピッチャーズ バイブル』『声――松坂大輔メジャー挑戦記』『屈辱と歓喜と真実と――“報道されなかった”王ジャパン121日間の舞台裏』『平成野球 30年の30人』『イチロー・インタビューズ 激闘の軌跡 2000-2019』『大谷翔平 野球翔年1 日本編2013-2018』など著書多数。

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